ガセネタの荒野 [80年頃の日本のパンク]
"ガセネタ"は、幻のバンドといっていいのだろうと思う。幸い93年にCDが出たので、演奏は聴くことができる。中心人物でありボーカルの山崎春美は、私は中学生のころから影響を受けている人。今でも時々ライブというか、パフォーマンスをしている。
ガセネタとか山崎春美に関しては書きたいことがいろいろあるけれど、長くなるのでまたの機会にします。
ここでは、小説『ガセネタの荒野』に出てくる印象的な断片をご紹介。
"いきなり演奏が始まった。フル・アップにしたアンプから、気違いじみたスピードで、引き裂くような音が迸った。血が凍りついた。それは爆発だった。瞬時にして、ありとあらゆる音が四方に飛び散る。音のカオス。だが、どんな混濁もなく、すべての音が、一粒一粒その存在を主張しながら走り過ぎた。空気を切り裂く、澄み切った音の刃。僕はひざが震えるのを止められなかった。"
"音楽は思想だ。そして、楽器を選ぶこともまた。ギターの選択に関して言えば、世の中には、大別して、ギブソン型のギタリストと、フェンダー型のギタリストがいる。ギブソンは、甘く、太く、中低音が充実した、音の良く延びるギターだ。それに対して、フェンダーは、固く、鋭く、線が細く、高音域が強調された、音がポキポキ折れていくような、ある意味では、融通の効かない、使いにくいギターだとさえ言っていい。フェンダーを使っていると、何か、裸に剥かれてしまったような気になってくる。浜野がどちらを選択したかは、ここで改めて言うまでもないだろう。"
"さらに、フェンダーには、大別すると、ストラトキャスターとテレキャスターの二種類のモデルがある。浜野は、メインで、文字通り気違いじみたESPマッドキャット・テレキャスター・モデルを使っていた。(中略)なぜ、彼はテレキャスター・モデルしか使わなかったのか。答えは簡単だ。それが、フェンダーの中でも、もっとも"遊び"の少ないギターだったから。"
"僕らの演奏にはエンディングしかなかった。エンディング。奇妙な言葉だ。じっと頭の中で反芻していると、それは名詞ではなく進行形に思えてくる。終わり続けること。だが、終わり続けるとはどういうことなのだ?終わりが続いていくとは?僕らの演奏は、いつも終わり続けていた。曲が始まったとたんに終わりに雪崩込んでいった。ほとんど数分に過ぎない曲の部分をやり過ごすと、ドラムとベースは次第に加速していき、それからカオスに突入した。浜野は、浜野のギターは、既に一歩先に、いや予め、常に既に、カオスに入り込んでいる。いつもの同じカオス。エンディング。終わること。終わり続けること。そして、僕らは、エンディングに突入してから、終わることができなかった。エンディングとは、終わりであり、始まりであり、中間であり、また終わりでもあった。僕は、もう終わりだ、いま終わりだ、と思いながら演奏した。だが、終わることができなかった。終わりはやってこなかった。どうやって終わるのだろう。どうやったら終わることができるのだろう。僕は、いつもそう思いながら演奏した。エンディング。僕らは、いつまでも終わり続けていた。"
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