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1月17日 DOMMUNEに行ってきた④ 千本中立売~どらっぐすとぅあの日々 [80年頃の日本のパンク]

前回の続きで、1月17日にDOMMUNEのスタジオに「千本中立売~どらっぐすとぅあの日々」を見に行った話の4回目です。今回は『どらっぐすとぅあ』の話です。

進行は、JOJOさん、GESOさんのトーク、スカイプでの 『どらっぐすとぅあ』オーナー、おいちゃんこと辻原千樫さん、元スタッフ、現FMNサウンドファクトリーの石橋正二郎さんのトークがあり、かけられた曲は、HIDEさんの初期のソロ、ガセネタ、トニーコンラッドwithファウストなどでした。

トークの内容をまとめると、こんな感じだったかと思います。記憶で書いているので不正確なところがあるかもしれないです。

『どらっぐすとぅあ』は、1972年に開店した。

店内は上下2層に仕切られていて、それぞれの層は立つと頭がつかえるような高さ。床と壁に紫色のカーペットが敷き詰められている。床にはめ込まれた照明がテーブル代わり。

保健所、消防署の許可は得られるだけの状況は満たしていたが、商業として経営することはしない、というポリシーのもと、あえて飲食店としての許可は取らず、支払われる金銭はあくまでカンパとして、という方式で運営された。『カンパニア・スペース』と呼ばれていた。

ウエストロード・ブルースバンドの塩次伸二氏と交流があったため、開店当時のスタッフにブルース系の人がいたり、店の主催で『BLUES JAM』というコンサートを企画したりしたが、店内でかける音楽は当初からプログレだった。

GESOさんは1975年ころからスタッフになり、JOJOさんは1978年ころにスタッフになった。1978年ころにそれまでのスタッフがほとんど辞めてしまい、フライヤー等でスタッフ募集をして新しいスタッフが集まってきた。

ドラムセットは入れられず、音量に制限もあったが、店内でライブも行われた。結成当初の非常階段もライブをした。

1978年ころには、当時の日本のオルタナティブなバンドのテープが店内でかけられるようになった。工藤冬里、BIDE、コーイチローらが東京と関西を行き来してそれぞれの音源をやりとりしていた。

1978年ころの客/スタッフで印象的なのはウルトラビデのBIDEさんとコーイチローさん。

1978年にはBIDE自宅のガレージでコンサートが開かれた。観客が参加したワークショップ的な色彩の強いもの。(当時の写真も出たが、17歳のBIDE=HIDEさんが若かった!)

私が一番印象に残ったのは、『カンパニアスペース』となったのは、営業許可が得られなかったからではなく、あえてそうしたのだ、というところ。JOJOさんもGESOさんもそのことは初めて知ったようで、感慨深げな様子だった。

どらっぐすとぅあが1978年ころに関西のオルタナティブミュージックの最初の拠点となったのは、いろいろな要素が合わさってのことだと思うが、商業主義を廃したというのも要因の一つだと思った。

思えば東京の拠点となった吉祥寺マイナーも、商業主義とは無縁のムードをまとっていたのではないかと思う。

こじ付けかもしれないが、インターネットも、商業主義を廃するとは言えないが、『どらっぐすとぅあ』や『マイナー』と、何かつながるところがあるような気がする。

『マイナー』や『どらっぐすとぅあ』に関するトークがネットで配信される。それは単なる懐古ではなく、今の状況につながる何かがある。そう思いたい。

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